多様な人々の努力し挑戦する姿
― 日本各地で、世界各地で ―
21世紀のパラダイム創りのために
現在私たちは、地球規模においても、東アジア地域においても、日本国内においても、20 世紀を形づくった基本的な枠組みや考え方(パラダイム)を乗り越えて、21世紀のパラダイムを創り上げる移行過程の真っ只中に生きていることは確かなことです。すなわち、今を生きている私たち一人ひとりは、意識していようといまいと、パラダイムシフトの過程に参画していることになります。
さらに、経済大国日本に住む私たち一人ひとりの考えや意思決定や行動は、地球規模のパラダイムシフトの方向に、かなりの影響を及ぼしているのも確かなことです。好むと好まざるとにかかわらず、日本人は、地球規模の新たなパラダイム創りに責任があることになります。
日本は昔から、アジア地域から、欧米地域から、様々な文化・芸術や科学・技術を学びながら発展させ、日本文化を築いてきたことも事実です。
また、日本が今のような経済大国になってきた過程で、日本国内においても、アジア地域においても、多くの人々に犠牲や苦しみを強いてきたことも歴史的な事実です。
そのような膨大な恩に対して、こころを込めて感謝し、世界にお返しをしてゆく時代がきているのでは ないでしょうか。そして、新たなパラダイム創りに具体的に努力し汗を流すことによって、日本人一人ひとりが人間としての自己成長を遂げる道につながると考えます。
ここでは、日本各地で、世界各地でパラダイムシフトに挑戦し努力を積み重ねている人々を紹介しながら、私たち日本人の役割について、皆様と意見交換を重ねていきたいと願っております。
様々な夢、様々な努力、様々な挑戦
これから国内や海外において、様々な夢をもって、様々に努力し、様々に挑戦している人々の姿を、私のブログ:エコロジカル・イマジネーションにおいて紹介してまいります。是非、折々に、アクセスしていただけますでしょうか。

転機をくださったムチャロ博士
- 私の転機―
私たちは、社会の中で働いていますと常にある選択が迫られます。その岐路において、どのような考えに拠って立って選択するのか。初めは小さな違いのようですが、いつの間にか大きな違いになっていることに、後になって分かってきます。
私にとって、その小さいと思っていた出来事が、今振り返ってみれば、大きな転機となっていたことが分かります。
ここでは、私自身の人生におけるある意味で大きな転機の機会となった出会いを書いてみます。先日、ある学生の勉強会でお話していて、参考にしていただけるかもしれないと思ったからです。
1975年12月末のことでした。初めての海外は、タンザニアとケニアの国境を越えて広がるセレンゲティ・ナショナルパーク内にある生態学研究所所長ツマイニ・ムチャロ博士を訪ねての旅でした。1年ほど前に来日していた時に㈱平凡社の友人を通じて知り合った方でした。彼は米国でDr.を取得し、タンザニア人として初めて著名なナショナルパークの研究所所長となったのでした。それまでは、当然のことですが英国人が所長を務めていたわけです。その頃のタンザニアはニエレレ大統領の主導下での国づくりが行なわれていました。その政治的意味を十分に理解できるほど私は勉強をしていませんでしたが、ケニヤとタンザニアのロッジで働く人々の私たちへの対応の仕方の違いには気がつきました。ムチャロさんの操縦するセスナ機で空から広大な草原に広がるヌーの群れやゾウの群れを見たり、あのゴロンゴロ・クレーター内を走り回り、ハイエナが群れになってヌーに襲いかかる様子を真近で観察もしました。そして、更に広大なリフトバレーをセスナで横切るときには、強い横風で少々危険な思いもしました。あの空の広がり、太陽の光の強さ、地平線が限りなく遠い草原、そして、生き生きと生きている大型の動物達。暗闇の草原には、生まれたばかりのヨチヨチ歩きの幼い仔を連れた母親のインパラ等の草食動物が活発に動き回っていました。夕暮れ迫る草原の遠くに見えるのは一列になってゆっくり歩んでいる象の群れ。あの長い鼻を垂らして静かに動くその光景は何とも荘厳な雰囲気を醸し出していました。このために私はここに来たのだと身体中で感じました。そして、草原の所々にある岩陰に周囲の色彩と調和して立つ洗練されたデザインのロッジは熱いお湯が豊富に出るシャワーも大型の真っ白いシーツのベットは、いわゆる欧米人用に造られていました。「ジャンボ!」と気軽に明るく挨拶を交わすロッジで働くタンザニア人。風景も人も言葉も日本とは全く異なる状況に圧倒されていました。
でもムチャロさんは、広い広い草原を指差して、緑の中に見える一筋の茶色の線が、「ツーリスト・ポリューション」であること、政府の方針も開発が優先でありタンザニアにおいても自然保護を進めるのはなかなか難しい状況にあるのだと、彼の血縁者が政府高官にいるが開発主張者であるために対立していることも話してくれました。もう、探検家リビングストンが描いていたアフリカは存在しないと、私が逃げ込もうとしていたアフリカはもう存在しないと実感した時でした。
ムチャロさんのご自宅のゲストハウスに泊まったある日、家の周辺を散歩していると、彼が急いで飛んできてとても怒るのでした。「ここは動物園ではない。もしライオンやハイエナに出会ったら、どうするのか!」と。確かに、良く考えてみるととても危ない行動でした。
その夜に気を許してくださったのか、ムチャロ氏は、日本を訪問した時の感想を話してくれました。そして、「なぜ、日本は立派な伝統をもっているにもかかわらず、アメリカの真似ばかりするのだ!」と、涙を眸に湛えながら、立川で見た米軍基地を囲む針金のフェンス内のゆったりとした空間に緑の芝生のある白い住宅と、外側の密集する日本の家屋の様子にショックを受けたと、話してくれました。「なぜ、自分の国の土地なのに、あのような状況を許しておくのか!」と。ムチャロさんのこのような表現の背景にあるアフリカ人として米国での経験を背景した彼の様々な想いや痛みを読み取るには、私は無知であり幼すぎました。ただ、このように全く文化背景も異なる人から、自国のことでありながら私自身が写真でしか知らない状況に対して、「憤慨」されるという事実をどう受け止めてよいのか分からずに、ただ彼のその静かな怒りを現わす態度に圧倒されていました。

日本への帰国途中、インドのボンベイのタジマハールという大きなホテルに2泊しました。往復35万円程度のグループツアーに同行しアフリカで別行動をとった訳ですが、この時の部屋はなぜか女性の友人と私はスイート・ルームに入れられました。この部屋に、タオルをもってくるボーイ、石鹸を持ってくるボーイ、皆異なる人でした。素朴に聞いてみると、「僕等はこれしかやらせてもらえないのだ!」とボソッと答えてくれました。カーストの現実に少し触れた時でした。大きなダイニングルームではシャンデリアが輝きテーブルの上には色とりどりの果物が盛られてあり、日本人ツアーへのサービスなのか、琴の音のする音楽がかかっていました。サリーを買いたいと外に出てみると子ども達が回りに集まってきて手を出してきて、身動きがとれなくなり、100メートルも動けずに直ぐにホテルに戻らざるを得ませんでした。翌日のバス観光のガイドは若い白人系の方でした。ここがインドの最初の原子力研究所、あれが有名なボンベイの港、これは最新の、、、と説明してくれるのですが、窓の外に見える路上で生活する人々の姿は全く無視したままでした。そして一番古いという博物館で豪華な飾り物などを見学してからバスに戻り、窓側の席に座った時でした。私の目線と同じ高さの窓の外に子どもの顔がありました。ドキッとしてもう一度見直す勇気がありませんでした。隣の人が、あれは父親が棒に子どもを括り付けて、ああやって物乞いをさせているのだと、子どもの足がない方が哀れみを誘うからもらいが多くなるからそうしているのだと、話してくれました。私のそれまで持っていたある価値観が飛び去った時でした。私のこころのヒューズが切れ飛んだときでした。
この旅は、私を本当の意味で大人にしてくれたのでした。地球の罪作りな場所―人間を生み出した場所―に行って見たい、人が少ない所で静かに暮らしたいといつもどこか斜に構えていた私でしたが、憧れのセレンゲティで見たゾウの群れの荘厳さとムチャロさんの涙、そして、ボンベイでの足を切られた子どもを見た体験を経て、私は社会で生きてゆく時の私自身の「物差し」を手に入れたのでした。
「人間が嫌いだからといっても、もうどこにも人で一杯。逃げる所はない。現実を受け止めることだ。世界の流れをつくっている米国を見てみようと。」と。その頃に働いていた米国の環境コンサルタント会社のデームス・アンド・ムーアと千代田化工建設㈱の合弁会社の副社長リューさんが米国本社を訪ねて、環境アセスメントの手法など学ぶように勧めてくれていましたが、また、私が中学頃から米国に移住した12歳年上の兄からも誘われていましたが、動機が見つからずに躊躇していました。しかし、米国を自分の目でみることを決心しました。
当時、私は、生物の世界の現場における経験を重ねるとともに、特に、環境コンサルタントとして現地調査をして環境アセスメント調査報告書をまとめて提出する業務過程で大學・研究者、企業、行政の間での問題にふれ、日本の科学論に関する疑問を感じるようになっていました。
ロスアンジェルスの本社オフィス、ヒューストン支部での環境調査の現場と実験室見学、シカゴの支部で見学した火力発電所から排出される排煙の拡散状況を監視するシステム、サンフランシスコ支部ではガイサーの地熱発電所見学と回りましたが、この空間と人口密度の大きく異なる米国での手法がそのまま日本で使えるとはとても思えませんでした。案内してくれた女性の家に招かれた夜、ボーイフレンドに紹介されました。とても物静かな何か寂しげな様子にドキッとしたこともありとても印象的でした。後で彼女は、彼がべトナム戦争経験者と話してくれました。今でもあの雰囲気を思い出すことができるのですが、多分、「死」を身近で体験した故だろうと想像することができます。飛行機の上からでも見える各家の庭にあるプールの青色が点々とし、どこまでも続く道路、幾重にも重なるハーウエーを流れるように走る数多くの自動車の群れを見ながら、400年ほど前まではバッファローが走り回っていたこの広大な土地をここまで変えてしまった破壊力に呆然としたことを思い出します。とてもステキに発展した国だとは思えませんでした。確かに、日本は日本の自然と面積を基盤にして物事を考えなければならないのではないかと、地図や情報からではなく、実際に自分が見聞きし感じた上での結論でした。
その後、私なりの考え方や手法で環境コンサルタントとして働き、当時の女性としては多分かなりユニークな仕事を経験することができました。しかしまた、日本の学者或いは科学論に関してさらに疑問を抱くようになり、日本を外から客観的に見てみようと、更に、日本人の自然や環境との係わりを哲学的に文化的に歴史的に考えてみようと、30代半ばにカナダの環境大学院に留学をしました。
そして、そこでコッブさんの本“Ecology of Imagination in Childhood”に出会いました。この詳細は、改めて、書いてみます。
ムチャロ博士に戻ります。
1991年10月末に世界資源研究所(WRI)の日本代表として、翌年1992年6月のリオ・地球サミットにおいて提出される予定の「生物多様性条約」を日本に初めて紹介するために、自然保護協会主催のシンポジウム、学術会議と環境省共催のセミナー等に協力いたしました。その時、ムチャロ博士が交通事故で死去されていたことを、アフリカ象を守る活動をしているケニヤの方から聞きました。
私が、やっと、ムチャロ博士の自然保護の活動に少しは協力できるようになれたと思っていた時の訃報でした。
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小島嶼―狭い陸地・広い海域―の視点
私たち日本人は、自分達が島国に住んでいることを良く知っているつもりでおりますが、しかし本当に知っているといえるのでしょうか。
明治維新以後、日本は主に欧米諸国の見方や考え方を導入してきましたが、自分達の拠って立つ場所が、大陸ではなく、島であることをどのくらい意識しながら大陸で発達した発想を学び応用してきたのでしょうか。
例えば、日本の陸地面積は世界194ヶ国の中60位に位置しますが、200海里の管轄海域面積では、米国、オーストラリア、インドネシア、ニュージーランド、カナダに次いで6位に位置しているのです。7位が旧ソ連、8位がブラジルです。
皆様は、このような事実を、知っていましたか?
海は、地球の表面の70%を覆っていて、地球上の全水量の約95%を占めているのですが、このように海域を含めた観点から比較すると、日本の面積は、こんなに広くなることを、私たちは学校で学んだでしょうか?
このように見方を変えてみますと、大陸の発想で行き詰まってきている資源開発や環境保全の問題において、これまでとは違った、日本の秘める可能性が見えてくるようです。
実は、2002年まで日本では海洋問題を総合的に取り扱う機関も、議論の場も、存在しない状況でした。その解決のために、海洋政策研究所(SOF)が設立され、海洋の重要性を広報し、海洋に関する総合的な議論の場を提供してきています。
ここでは私は、特に、小さな島嶼諸国に住む人々や生物に絞って、大陸のそれとは異なる視点を紹介しようと思っています。
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米国良識派の挑戦
「西暦2000年の地球」、WRIの気候変動問題や生物多様性保全への挑戦
日本の政府が地球規模の開発と環境の問題に目覚めたのは、『西暦2000年の地球』(”The Global 2000 Report to the President: Entering the Twenty- First Century” (1980)の公表が契機だったようです。 この報告書は、1977年5月米国カーター大統領が議会に環境教書を提出し、米国政府環境問題諮問委員会(CEQ)と国務省に対して、関連部局の協力を 得て、20世紀末に向けて起こりうる世界の人口、資源、環境の変化を研究するように命令したことから、3年をかけて100名余が参加して作成されたのでした。
その結果、もし現在の傾向が続けば西暦2000年の地球は悲惨な状態になることが明らかになったのでした。世界の人口は2030年には100億人に達する過密状態となり、その増加分の90%が途上国に集中するために食料生産が危機的状況となり、汚染は拡大し環境は劣化し、熱帯林の40%は消滅する等を、悲観的な予測を出し、即効的な対策方法はないと言及したのです。日本では京都議定書や温暖化で知られている気候変動問題は、この報告書で初めて本格的 に警告されたのです。
この報告書がカーター大統領に提出された年の大統領選挙において、共和党が勝利し、1981年1月レーガン政権となり、報告書の中の警告は無視される状況となりました。
調査研究責任者の一人であった大統領環境問題諮問委員会委員長(CEQ)のジェイムス・グスタフ・スペス氏は、問題の深刻さに対する懸念とともに重い責任を感じたのでした。そこで、スペス氏は、マッカーサー財団の財政的支援を得て、1982年地球環境と開発に関する基本的な問いに取り組むための新しい政策研究センター、世界資源研究所 ( World Resources Institute )を設立しました。理事には、ロバート・マクナマラ元国務長官〔元世界銀行総裁〕等当時のいわゆる民主党系のエスタブリッシュメントが参加しています。
独立した立場で、民間非営利で、超党派のシンクタンクとして発足したWRIの、最初のパンフレット資料には次のように書いてあります。
「 WRIは、世界の人々と国々が、生命や経済成長や安全保障が依存する自然資源や環境質を提供している地球の能力を害することなく、同時に基本的な必要物と 経済的要求に如何にして応えることができるのか、という基本的な問いに取り組みます。地球資源を持続可能にマネージメントする方法を見つけることは、非常 に高い使命の責任を分担することであります。そして、それを見つけることは、人道的・環境的な価値にとどまるものではなく、健全な世界貿易、繁栄、開発、 政治的安定、そして、未来の世代への必要物の提供という観点から、すべての国々の経済的、政治的な関心ごとでもあるのです。」
WRIが設立以後に取り組んできた政策研究の成果や実績の詳細は、WRI-JP において紹介いたします。
以下に、日本の方々によく知られている分野について、WRIがどのような役割を果したのか、短く書いてみます。
- (1)地球温暖化対策での主導的役割
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1983年からこの脅威に関して国際的な関心を高める指導的な役割を果たしてきました。将来に温暖化が起こる規模とその速度等の予測モデルを開発する一 方、UNEP(国連環境計画)、WMO(世界気象機関)とともに1988年に国際政府間パネル(IPCC)を設立するための努力を行ない、また、1989 年に国際NGOネットワークのClimate Action Network の設立を支援したのでした。
- (2)熱帯林や生物多様性の消滅を防ぐための対策での主導的役割
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1984年から熱帯林や生物多様性の減少を防ぐために、世界自然保護連合(IUCN)とUNEPと協力して、行動計画の作成を行い、1992年2月にGlobal Biodiversity Strategy”を発表しました。
- (3)自然資源の保全とファイナンスにおける主導的役割
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自然資源を経済評価する方法を研究するパイオニアの役割を果たしました。例えば、グリーンGNP計算方法の開発でしたし、また、国際保全融資 プロジェクトにおいては、途上国における自然資源の保全への融資を行う機能と制度に関する提案は、地球環境ファシリティ(GEF)として導入されました。
このようなWRIの努力は、1992年の国連環境・開発会議(地球リオサミット)において、気候変動枠組み条約や生物多様性条約として実を結びました。
1988年5月にWRI創設者スペス氏が初来日して、日本の政府や企業関係者に対して地球環境問題の重大さと脅威を説明し、日本が積極的に取り組むように提案しました。
私は、この時に、WRI研究員であった米国人に依頼されて、スペス氏と日本のNGOとの意見交換の場を設けたこととから、WRIで一緒に働くことを誘われました。
当時、日本はバブル経済のピーク時にあり、右肩上がりの日本の経済成長が他地域の自然資源や環境に大きな影響を及ぼしていることに対する自覚はほとんどなかったのでしょう か。1989年5月1日のニューズウイークでは、「日本はエコアウトロー?」と書かれたほどでした。
1989年7月のアルシュサミットで地球環境問題が主要な議題となり、9月に日本政府とUNEP共催により、日本で初めて、地球環境問題に対する東京会 議が開催されました。その当時、日本には地球環境問題に関する学者や専門家がまだいなかったために、その会議の背景資料はWRIが提供しました。この国際会議に日本とアジアのNGOは傍聴さえも許されない状況で、大学関係者とNGO関係者はその前に別の会合を開催下というのが当時の日本の状況でした。
私は、この時から、日本の各セクターー政府(立法、行政府)、企業、学術界、各種団体、メディアーの関係者に対して、温暖化、熱帯林破壊・生物多様性減 少等の地球規模の環境問題に取り組むようにと、また、NGOの役割を理解し活動を支援するようにと、政策的観点から働きかけることを開始しました。そして、スペス氏から、政策的観点からの取り組みと政治的な取り組みとの違いを学ぶことになりました。
それから19年が過ぎ去りました。その間に、いろいろなことが起きました。 1992年のリオサミットが開催され、日本の主要なセクターが地球規模の環境と開発の問題に積極的に対応し始めました。
一方米国では民主党が選挙で勝ち、リオサミットまではWRI関係者と行動を共にしていたアル・ゴア議員やバビット議員は、1993年1月ゴア副大統領、 バビット内務省長官となり、そして、スペス氏は国連開発計画(UNDP)総裁に就任しました。WRI所員の中から任命されて政府に入っていきました。
UNDP総裁に就任したスペス氏は、1994年に「人間の安全保障」という概念を提唱しています。彼は、それまで軍事的な面での安全保障の概念を再定義して、地球環境の安全保障と、人間の安全保障という概念を世界に広めたことになります。 このように私は、米国や国連の政治的動きを内側から見る機会をえることことになりました。
しかし、2000年の米国の大統領選挙では、ゴア前副大統領がブッシュ共和党におかしな負け方をし、2001年1月の共和党のブッシュ新政権は気候変動 問題―特に京都議定書を無視する状況となりました。さらに、同年9月11日を境にして、安全保障の問題は再び軍事的な側面に独占される状況となってきてい ます。
WRIの副所長当時の1987年に最初に軍事的な安全保障を再定義すべきであると提唱したジェシカ・マシューズ氏は、カーネギー国際平和研究所の代表として、2004年3月に米国政府がイラク攻撃を開始することに対して、ワシントンポストで正面から反対の論調記事を書きました。イラクの状況は、現在、彼 女が危惧したような政情となってきています。

2006年8月現在、
日本は京都議定書を批准した国となり、環境立国としての存在を高めようとしていますし、NGO/NPOの役割の重要性は当然のことのように語られるよう になってきています。日本では前向きの変化が起こってきたことは確かなことですし、日本人の一人として、誇らしい気持ちになります。
とはいえ、現実は厳しいものです。もし世界中の人々が米国や日本のような生活様式を続けると、地球がもう二つ必要になると警告されているように、まだ、 私たちは、地球の自然資源と環境のもつ能力の保全を十分に考慮する持続可能なマネージメントの方法を見出していないことも事実です。危機的な状況はさらに 悪化しているのが現実です。
私は、いろいろな幸運な巡り合いを経て、パラダイムシフトに正面から挑戦し努力し続ける米国の良識派の方々と一緒に働く機会に恵まれ、米国と日本の相違 と共通事項を考える機会を得ました。また同時に、韓国・中国やアジア太平地域、島嶼諸国の人々との相違と共通な願いを考える機会ともなりました。このような意味を十分に理解しマスターしているのか甚だ心もとないのですが、しかし今、私はこれだけは、はっきりと申し上げることができます。
「 私たち日本人は、韓国・中国、アジア・太平洋地域の、そして、米国のパラダイムシフトに挑戦する人々と協力して、世界の中での歴史的 な役割を果たす時がきていると 」。
このWRI-JPでは、WRIが日本の地球規模の対策に及ぼしてきた軌跡を紹介しつつ、WRIを含めて米国の憂慮する組織や個人と情報や意見交換のできる場にしてまいります。
皆様には、是非、WRI-JP にアクセスしていただき、ご意見やご協力・ご支援をいただきたいと、願っております。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
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