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Miwako Kurosaka

 ラベル ご挨拶

 私は、日本国憲法が施行された1947年春に生れ、戦後の右肩上がりの経済成長時代に育ちました。
  10代の1960年代、自然の風景や生き物の住み場所を壊しながら人工物を増やしてゆくあり方に素朴に疑問を抱き、当時の日本社会が片隅に追いやっていた視点に立って働いてゆきたいと思いました。その後、内外の多くの方々からの教えを受けて、悩み迷いながら、失敗や間違いもおかしながら、痛みを感じ後悔もしたり、喜びや楽しさも味わい、試行錯誤を重ねつつ、学びながら、内外の多くの人と共に働く機会に恵まれて、ここまできております。  そして、昨年2005年の敗戦60周年には、ある試練が与えられたことで、私自身の自己検証、自己修練、自己変革の機会に恵まれました。これまでたまっていた毒素のようなものを吐き出すことができたおかげで、少し楽な気持ちになっております。
   今年2006年は、設立準備段階から関わってきましたJCSD(持続可能な開発のための日本評議会)が組織として運営体制を整えましたので、事務局長としての私と、個人としての私を、外部から明確にわかるようになります。これまで誤解を招くのを避けるために控えていた仕事ができるようになってきました。

  そこでやっと、20歳の時に想い定めた「人間と自然との係わりに関する思索の旅」のこれまでの道のりを整理し、未来に向けて基礎創りに取り組む条件が、専門的な面からも、私的な面からも、整ってきました。これから、これまでの理論と具体的な実践を重ねてきた経験を背景にしつつ、しかし、素朴な疑問と驚嘆の感覚を大切にして、21世紀型の人間と自然の創造的な関係を築くために働いてまいります。
  どうぞ、ご協力、ご指導、ご支援を、よろしくお願い申し上げます。

   黒坂三和子
 

2006年12月12日





 


 ラベル 

現在

黒坂三和子

  • マルチステークホルダーフォーラム「持続可能な発展のための日本評議会(JCSD)」事務局長
  • 「有限責任中間法人 持続可能な発展推進機構・基金 Japan Foundation for Sustainable Development (JFSD)」 設立準備事務局長(及び常務理事)

   ・ 世界資源研究所(WRI)日本語ウェブサイト作成中

 ラベル 過去の各種委員(主要な審議会・委員会・勉強会のみ記載)

このような委員を務めさせていただくことで、
日本における政策形成過程や意思決定に関して学ぶ好機となりました。

  • GEFの活動に日本の参加を進める会(GEF/SAWGJ)設立メンバー
  • 毎日新聞「持続可能な社会創造委員会」委員
  • (財)日本野鳥の会学術委員(顧問)
  • 東京電力㈱環境顧問会委員
  • 気象庁気象審議会委員
  • 環境庁京都議定書・国際制度検討委員会検討員
  • 通商産業省化学品審議会地球温暖化防止対策部会
  • 通商産業省産業構造審議会地球環境部会委員
  • 運輸省運輸政策審議会総合部会地球環境問題小委員会委員
  • 海外経済協力基金環境問題検討会委員
  • (財)交通エコロジー・モビリティ財団・評議員
  • 人間環境問題研究会理事
  • 国際自然保護連合(IUCN) 教育・コミュニケーション委員会委員
  • 環境庁自然債務スワップ研究会委員
  • 外務省地球環境に関する懇談会委員
  • 大蔵省国際金融局開発融資における環境問題研究会委員
  • 建設省関東地方建設局 鶴見川水系環境管理基本計画策定委員

 





 ラベル 資格

  • 国立国語研究所 昭和61年度日本語教育夏季研修初級研修証明 (1986)

  • 衛生工学に関する衛生管理者免状(1976)

  • 衛生管理者免状 (1971)

 

 

 ラベル 実績・略歴・学歴 - 「未だ、社会学習塾在学中」

 私は、社会の中で働きながら、多くのことを学びながら、ここまできておりますので、私は「社会学習塾在学中」と申し上げたいところです。以下に、社会学習塾において働き学びまた働いてきた事例を紹介させていただきます。

  • 1995年 - 現在: 「持続可能な発展のための日本評議会 ( JCSD )」 国際担当、事務局長 -->JCSDのサイトにて掲載。



  • 2003年 - 4年: GEF(地球環境ファシリティ)コンサルタントとして、GEF日本語版冊子作成
    『GEF-地球環境ファシリティ』( pdfファイル)

     WRIの日本語版出版物として最初に翻訳された『自然の恩恵:開発と保全のための資金調達』(Natural Endowments: Financing Resource Conservation for Development)(大来佐武郎日本語版序文、日本環境協会、1989.)の中で新しい資金メカニズムとして提案された国際環境ファシリティ(IEE)がフランス政府の支援によって、1992年のリオ地球サミットで正式に現実化された地球環境保全のための唯一の資金メカニズムがGEFです。日本政府は創設以来真面目に資金を供与してきていましたが、実態がほとんど知られていなかったために、このGEFの全体像を日本語でわかりやすく整理してみたものです。概念から具体的な仕組みがつくられ、現在世界各地でプロジェクトが進められている実例を、賛否を含めて、学ぶことは多くあると思います。
    Global Environment Facility (GEF)

  • 2003年: Yale大学森林・環境学部部長コンサルタントとして、日本のNGO奨学制度推進
     
  • 2002年1月 くらしの未来像ワークショップ記録

      ワークショップ「くらし未来像を考え実行する活動―如何に暮らすか、如何に生きるかー地球規模の資源と環境を視野に入れ、最新の科学的・社会学的知識と、昔からの経験と知恵と、想像力を駆使して、生命を尊重する21世紀の 生活基盤(衣食住)と生活圏(邑)のあり方を探る」を、「くらしの未来ネットワーク」として開催。 当時、多様な分野のが集まり、このような視点で、「くらしの未来」について意見交換を行なった機会は初めてのことでした。

    講演者・パネリスト:江戸京子、黒田杏子、役重真喜子、香西泰、鬼頭秀一、永井多恵子、谷みどり、一方井誠治、三輪倫子、上山弘子、山本加津子、山崎洋子、安藤カーキー、菅原歓一、松井晴子、西本和美、富田玲子、鈴木洋子、常山泰弘、山崎正代、桑原次男、菅谷明子、望月信一、和田幸子、安藤多恵子、藤崎理恵、足立治郎、黒坂三和子


  • 1989年 - 2001年:
  •  世界資源研究所(WRI)、上席研究員(日本代表)として、 当時の日本において理解度や認識度が非常に低かった、以下の3点に対して、どのような考え方とやり方で働きかけてきたのか、WRI-JPのサイトにおいて紹介してまいります。
  •   (1) 地球規模の開発と環境を持続性の視点で取り組む重要性
      (2) 政府ではない立場の政策分析・研究、代替案の提言の重要性
      (3) NGOの役割の重要性

     小学生時代の遊び相手であったセキレイ、モズ、ドジョウ、カブトムシ、アゲハチョウ等の棲みかが急激に消えていく一方で、家の中や世間でモノが急速に増えていく流れに対しての素朴な疑問、自然破壊や環境汚染(公害)が起きている現場、その被害を受けて苦しんでいる人の姿を映像をとうして見て、殺されてゆく生き物たちを見て、その状況に憤慨し、自分に何ができるのかと素朴に自問した10代の時には、その解決のための最終的な手段が「政策」であり、「政治」であるとの考えには至りませんでした。そして、兄とは異なる価値観を捜し求める思いが絡み合って始まった私の個人的な旅は、実は地球規模での、また日本での、「パラダイム・シフト」の過程に係わりながらきたのだと思い至るようになるまでに、40年余かかった事になります。
  • 1998年から2003年までのWRI出版物日本語版リスト及びWRI関係者講演要旨・新聞記事等リスト ( pdfファイル)

  •  このリストに掲載されている日本語版作成経緯や、共同プロジェクト推進過程や、各種の会合において起こった興味深いエピソードは、これから随時、WRI-JPサイトにおいて紹介してまいります。是非、そちらにアクセスしていただければ幸いです。
     ご参考にと、上記のリストの中で、リオ・地球サミット前に作成した日本語版を以下に幾つか紹介します。
  • 「地球環境保全に関する東京会議」1989年9月11日 日本政府・UNEP

  • 『自然への恩恵―開発と保全のための資金調達』大来佐武郎日本語版序文1990年 日本環境協会訳

  • 『世界の資源 1988-1989:世界の経済を支える環境と資源の評価・146ヶ国のデータ表』 WRI,IIED,UNEP 環境情報普及センター

  • 『地球環境安全保障ー21世紀への提言』 G・スペス/J.マシューズ、黒坂編訳、岩波ブックレット1991年

  • 『地球環境と経済』 R.レペット、黒坂・栗原訳 岩波ブックレット1991年

  • 『地球温暖化―条約交渉への提言』森島昭夫日本語版監修 1992年3月

  • 『自動車と環境―自動車の動向と、地球温暖化、エネルギー戦略、交通運輸政策』

  • 『地球環境と情報』T.マシューズ/D.タンスタル、西岡秀三・森口祐一訳 岩波ブックレット1992年



      これ以降のものは、上記のリストPDFをご参照ください。






 現在、1980年後半から地球規模の環境と開発に対する関心や理解や意識を高め、それぞれに対策を立てていただくように、日本の政府(政治家、行政府)、 企業、大学・研究者、メディアに対して、次のようなテーマで働きかけてきた経験を整理して、本にまとめる作業を進めております。

(1) 気候変動(温暖化)
(2) 熱帯林・生物多様性減少
(3) 地球規模の自然保全と金融―、資金メカニズム、緑の料金等
(4) 持続性の評価手法ーグリーンGNP, マテリアル・フロー等
(5) 地球規模の資源と環境の総合的データ把握

  気候変動問題に関して、日本の各セクターの関係者に対して、どのように取り組んできたのかという紹介はWRI-JPサイトで紹介いたします。



事例A.、ここでは、 生物多様性・生態系に関するWRI 出版物日本語版発刊及びセミナー等関連行事を以下に紹介いたします。

A. 生物多様性・生態系に関するWRI 出版物日本語版発刊及びセミナー等関連行事

  1. 『自然の恩恵:開発と保全のための資金調達』(Natural Endowments: Financing Resource Conservation for Development)大来佐武郎日本語版序文、日本環境協会、1989.
  2. 「選択の余地を残すために ―生物の多様性保全の科学的根拠―(要約)」(Keeping Options Alive: The Scientific Basis for Conserving Biodiversity)1989
  3. 『地球環境安全保障―21世紀への提言』J.G.スペス、J.T.マシューズ著、黒坂編訳、岩波ブックレット№220、1991
  4. 『世界の生物の多様性を守る』池田周平・吉田正人翻訳,(財)日本自然保護協会,1991“Conserving The World’s Biological Diversity”by Jeffry A.McNeely, Kenton R. Miller,Walter Reid,Russell A. Mitermeier,Timothy B. Werner, 1990
  5. “Biodiversity”という概念を日本にて最初に紹介した1991年10月26日―11月1日までの行事一覧
  • 1991年10月26日(財)日本自然保護協会創立40周年記念国際セミナー「生物の多様性を守る」K・ミラー(WRI)基調講演 J・マクニーリー(IUCN)、A・ウマー二ャ(WRI理事、元コスタリカ天然資源相)
  • 1991年10月28日-29日環境庁主催、「生物学的多様性保護に関する東アジア地域ワークショップー湿地の生物学的多様性に焦点をあてて」 K・.ミラー(WRI)特別講演
  • 1991年10月30日環境庁主催・日本学術会議共催、国際シンポジウム「生物学的多様性とその保全」K・ミラー(WRI)基調講演
  • 1991年10月31日星陵会館、-11月1日法曹会館K・ミラー(WRI)主催集中ワークショップ
    参加者:議員(堂本暁子参議院議員、GLOBE-Japan)、松下政経塾(宇佐美登)
    政府・関連機関(外務省、環境庁、農林水産省、通産省、国際協力事業団、OECF、日本輸出入銀行)、大学・研究機関(安部琢哉京都大学教授、森嶋昭夫名古屋大学教授、磯崎博司岩手大学教授、渡辺信国立環境研究所室長)、民間企業(市川博也経団連産業政策部部長、山越厚志)(長谷川雅世笹川平和財団)、NGO(吉田正人日本自然保護協会、市田則孝日本野鳥の会、長尾自然環境財団、村田幸雄WWF-Japan、)
  • この時、政策的概念として使われている“Biodiversity”をどのように日本語翻訳すべきか、意見交換が行なわれた。


  1. 『生命の樹』ケントン・ミラー著、熊崎実訳、岩波書店1993 “Trees of Life”
  2. 『バイオダイバーシティ・プロスペクティング~持続可能な開発のための遺伝子資源の利用』仮訳/編集:黒坂三和子、菅野暁太、1993、”Biodiversity Prospecting: Using Genetic Resources for Sustainable Development“1991
  3. 『生物の多様性保全戦略 地球の豊かな生命を未来につなげる行動指針』佐藤大七郎監訳、中央法規1993 ”Global Biodiversity Strategy:Guidelines for Action to Save, Study, and Use Earth’s Biotic Wealth Sustainably and Equitably“1992
  4. 『生物の保護はなぜ必要か-バイオダイバーシティ[生物の多様性]という考え方』藤倉良 監訳・解説、ダイヤモンド社、1994 (“Keeping Options Alive:The Scientific Basis for Conserving Biodiversity”1989)
  5. 『緑の料金 -税制改革によってどれほど環境と経済に影響を与えられるか』飯野靖四監訳、中央法規出版、1994. “Green Fees: How a Tax Shift Can Work for the Environment and the Economy “1992
  6. 『国家生物多様性計画策定ガイドラインー世界各国の初期の取り組みに基づく指針』日本語訳:WWFJapan WRI日本連絡事務所、1998 ”National Biodiversity Planning Guideline Based on Early Experiences around the World“1995
  7. 『最後の未開拓な森林―瀬戸際の生態系と経済―世界に残存する広大な天然森林生態系の現状(仮訳)』佐藤裕子、田川由紀子、WRI日本連絡事務所訳、”THE LAST FRONTIER FORESTS: ECOSYSTEMS & ECONOMIES ON THE EDGE –What is the Status of the World’s Remaining Large, Natural Forest Ecosystems?“、1998
  8. Feb.9,1999 The Millennium Assessment of the State of the World’s Ecosystems,Steering Committee Meeting Feb.,2000 The Millennium Ecosystem Assessment –Strengthening Capacity to Manage Ecosystems for Human Development, with IPCC,FAO,UNDP,UNEP,World Bank,WBCSD,CBD,ノルウェー・スエーデン・カナダ・米国各政府 June6,2000 ミレ二ウム生態系評価計画フォーラムー日本関係者(政府関係者、企業関係者、学者・研究者、財団法人関係者、NGO/NPO 関係者、メディア関係者)に説明
  9. 『世界の資源と環境 2000-2001: 地球生態系と人類の未来』 沼田真・日高敏隆・新妻昭夫・中静透日本語版監修、WRI,UNEP,UNDP, 世界銀行、日経エコロジー “ World Resources 2000-2001: People and Ecosystems The Fraying Web of Life “ ,2000
  10. “ World Resources 2002-2004: Decisions for the Earth Balance, Voices, and Power “, WRI, UNDP, ENEP, World Bank
  11. March,2005 「ミレニアム生態系評価プロジェクト総合報告書」1300名の専門家が95ヶ国において調査した結果の報告書 (UNEP)

事例B. NGOが果たす役割及びNGOによる政策分析・提案能力の重要性を理解し、支持していただくために展開した活動経験も整理しております。以下に、その概要を紹介いたします。

-->1991年 欧米の環境NGOに関する資料収集とともに、米国、カナダ、英国、ベルギーにおける20団体のNGOを訪問し、設立経緯、活動目的、運営形態、規模、会員数、資金源等についてインタビューしまとめた。

  1. 『欧米の環境NGOの地球環境問題への取組み』(平成3年3月) (財)地球・人間環境フォーラム発刊
  2. 「世界のNGO-温暖化問題でけん引き役を果たすCAN」1991.7 『グローバルネット』(財)法人 地球・人間環境フォーラム
  3. 「第5章 地球環境問題とNGOの役割」1991.10.人間環境問題研究会編集『環境法研究 19号―特集:地球環境問題と国際的対応』 有斐閣
  4. 「生物の多様性の保全をめぐって」1992.2 『グローバルネット』(財)法人 地球・人間環境フォーラム
  5. 「日本の環境政策が正当に理解されるためにー政府からも企業からも独立した非政府組織の役割」1992.6 『かんきょう』
  6. 「地球環境問題が問う日本のあり方」1992年9月号『地方政治』
  7. 「第9章 米国の環境政策をつき動かすNGOの様々な活動」1992.10 人間環境問題研究会編集、『環境法研究 20号ー特集:21世紀への新しい環境政策を探る』有斐閣

    -->1993年に、「政策研究とは何か」欧米の政策研究機関にインタビュー調査を行う。(未発表)
    -->1994年に、ワークショップ「地球環境政治ー政策研究能力育成の方策を探るために」を開催(報告書未発表)

    参加者: 入山映、WaltReid,JanetBrown,愛知和男、赤尾信敏、M,KalawJr、河合三良、加藤三郎、清木克男、小杉隆、茅陽一、小林料、岩崎駿介、黒田洋一、清水康弘、久保文明、E.Hafild、綿貫礼子、矢花公平、一方井誠治、大脇雅子、川口順子、宮川公男

  8. 「地球環境の視野から日本の環境状況把握を初めて試みた環境白書」1994.6 ぎょうせい『かんきょう』
  9. 「地球環境政策形成に貢献しうる人材・組織の必要性」1994.11 『産業と環境』
  10. 「第6章 南のNGO-リオ以後の国際環境・開発政策の真の推進役」1995.2 
    人間環境問題研究会編集、『環境法研究 22号-特集:地球環境保全への法制度的展開-ポスト・リオ会議-』1995.2 有斐閣
  11. 「地球資源・環境の安全保障と日本の持続可能な人間開発」1995.『計画行政』18
  12. I-2 世界のシンクタンクー世界資源研究所(WRI) 『政策形成創出ー市民社会におけるシンクタンク」下河辺淳監修 第一書林 1995
  13. 共訳『台頭する非営利セクターー12ヶ国の規模・構成・制度・資金源の現状と展望』L.サラモン、H.K.アンハイアー著 今田忠監訳 1996

  14. -->1997年 3月 環境庁主催 「気候変動対策国際戦略世界会議」の開催協力
    -->1997年10月 JCSD主催 「JCSDシンポジウム:地球温暖化防止における各セクターの役割とパートナーシップ」開催協力
    -->1997年12月 WRI・GIRS主催国際会議「サステイナビリティ21-エネルギー政策とCO2削減技術」主催


  • 1988 - 1990: 『自然への共鳴』 編者としてエッセー・論文集3巻 思索社(株)  -->2007年初夏頃に改訂版作成予定





    第1巻 『子供の想像力と創造性を育む』執筆者21名  1989年1月発刊
    G.カロザーズ、沼田真、D.ギフォード、中村雄二郎、藤岡喜愛、L.J.パーカー、E.コッブ、内田伸子、村上益子、清水賀与、江森国友、中沢和子、春日春樹、W.F.デイ・ジュニア、C.W.スティルマン、飛鳥童、四手井綱英、前田真三、秋山寛、木下勇、R.ムーア

    第2巻 『日本の人と環境のつながり』 執筆者21名 1989年9月発刊
    C.H.ギミンガム、渡辺正雄、親泊素子、黒田洋一、水野憲一、樋口広芳/大庭照代、幸丸政明、義江彰夫、今村仁司、室田武、西村幸夫、品田譲、井上有一、丸山真人、長谷川敏彦、荒木博之、鈴木秀男、成瀬悟策、秋山さと子、岩田慶治

    第3巻 『地球規模の創造的なかかわり』執筆者19名 1990年3月発刊
    G.スペス、R.ムーア、R.ハンセン/L.ウィルソン、C.スティルマン、親泊素子、R.クック、I.G.シモンズ、スコットランド教会社会・宗教・技術部会調査研究委員会、小澤徳太郎、H.エングウェノ、佐藤全弘、A.ミラー、M.W.ドネリー、小林料、米本昌平、崎村久夫、林達雄、中村敏枝、高木仁三郎、河合隼雄、黒田杏子、、、白川義員、酋長シアトル、S.セレソ、根本進、香川紘子

    この3巻の本『自然への共鳴』を編集中の1988年5月に、世界資源研究所(WRI)創設者のジェームズ・ガスターヴ・スペス氏に出会い、私は、環境問題に対して、「政策的に」取り組む意味を初めて知りました。
     それ以来、日本の経済活動が地球規模の資源と環境に悪影響を及ぼしている政策を変えてもらうために、日本の政府(議員と行政官)、企業、学界、メディア、そして市民団体の各関係者に働きかけるという「政策的なアプローチ」の仕事を始めたのでした。


  • シアトル酋長のお墓




  • 1987年 - 1989年: エコー(株)及び海洋科学(株)の顧問或いはコンサルタント



  • 環境教育の進め 1987年: 沼田真監修  『環境教育のすすめ』  黒坂「八章 子どもの遊びから始まる創造的な自然教育」 東海大学出版会 1987

     ここで、私は最後に、斉藤正二著『日本的自然観の研究』(八坂書房)の美しい言葉を引用しています。
    「人間は変わってゆくものである。 人間が良い方向に変われば、必然的に地理的風景も良く変わっていく。人間の考え方、生き方次第では、日本の風景はかえって今後において美しく変わっていくことが可能である。必ずや、そういう日がくるであろう。心配するには及ばない。」

     大学3年のある時、「これからの生態学」と題する講演を先輩に連れられて東京大学理学部に傍聴に行き、沼田真千葉大教授(当時)の指摘されたご意見にこころをひかれました。
     その後、環境コンサルタントをしていた1970年代、沼田先生の千葉大学の実習に参加させていただいた時に、「環境学とはどのようなものですか?」と尋ねましたところ、「うーーん。難しい質問だね。僕らはこれまでの学問の観点から、環境問題について考え、話をし、書くことをするから、君達世代が、総合化するのだよ。」と、答えてくださいました。
     また、ヨーク大学に留学する時は推薦文を書いていただいたりしました。1991年10月に財団法人日本自然保護協会設立40周年記念のシンポジゥムに向けて、『世界の生物の多様性を守る』IUCN,WRI,CI, WWF-US,WB発行の日本語版作成していただいたり、『世界の資源と環境 2000-2001:地球生態系と人類の未来』WRI,UNEP, UNDP,世銀共編では、日本語版監修をしていただきました。
     厳しさとやさしさを湛えた学者、教育者、そして、自然保全の実践者としての姿勢に対して、心から尊敬の念とともに、ご指導に対して深く感謝の念を抱いております。

    沼田真編『現代の生態学とその周辺』(東海大学出版、1995年) 黒坂「環境政策形成過程における生態学の役割を考える」

     この頃、沼田先生から、「そろそろまとめの時期ではないか、、」と、静かなメッセージ頂くようなことが何度か起こってきています。



  • 1986年: 『イマジネーションの生態学―子供時代における自然との詩的共感』黒坂三和子・滝川秀子共訳、思索社、1986
     この当時は、自分の思考を深めるために翻訳作業をしていましたし、また、理解できない部分がありました。20年後の現在、改訂版を作成しておりますが、当時よりは経験も重ねましたので、今度は、多くの方々に理解していただけるような日本語にして読者にお届けできるのではないかと思っております。





  • 1986年: エール大学森林・環境学部教授S.ケラート博士のフルブライト・プログラム「日本の自然観・動物観の調査」補助(1986)
     この調査は大変興味深いものでした。ケラート教授の調査の目的は、「自然と調和して生きる日本人」と標榜しながら、経済活動を急激に世界の各地で展開し、自然環境を破壊しているというのは、どういうことなのか、本当の日本の自然観や動物観を知りたい、というものでした。調査方法は2種類。ひとつは、統計処理できる形式。オーストラリア人が社長をしている 調査会社に依頼する本格的なもので、日本の都市(大、中、小規模)、農村、漁村を対象地にしてそこに住む人々各数十名に直接に質問者が20程の質問して、その回答結果を統計処理して、分析する方法。もうひとつは、日本で自然や動物の保全に取り組んでいる識者20名ほどに、Kellert教授が直接インタビューし、統計処理では理解できない部分を補うというもの。 私はこのインタビュー調査に同行して、日本各地を回りました。 その質問はなかかなシビアなものでした。例えば、「あなたは、盆栽は、日本人の自然を愛する気持ちを表現したものと考えますか?」 「はい」と答えると、次の質問は、「あのように、大きく育つ可能性のあるものを小さくさせておいたり、針金で矯正するのが、日本人の自然を愛する表現なのでしょうか・」と。 また、「丹頂は、自然を愛する日本人のシンボルと考えますか?」「はい!」「では、なぜ、野生のタンチョウの数よりも、JALの飛行機の数が多いのでしょうか?」と。 このような問いを、日本人自ら行なったことはないなと、思いながら、手伝いました。 この経験が、3巻の『自然への共鳴』を企画する土台となったのでした。



  • 1986年: ヨーク大学大学院環境学部修士課程修了
     20代後半に英国人のC. Gimingham教授に留学を奨められ、私が学びたい分野がある大学を探してくださいました。そして、英国にも米国にもなく、カナダのヨーク大学環境学大学院に唯一あるということだけで、決めました。推薦文をお願いした沼田真先生は、「トロント大学は知っているが、ヨークは知らない。君には戦略がないようだね。しかし、娘に相談したところ、その発想は女性的だから支持して欲しいといわれたので、書きましたよ。」と推薦文を書いてくださいました。その当時、沼田先生から「戦略がない」と意味が理解できない私でした。ヨーク大学はトロント郊外に1970年代に設立された新しい大学で、ユダヤ系の学生が多く学んでいました。  日本がバブル崩壊に向けて経済成長をつづけている時期に、私は、静かなカナダで日本日本における環境問題に対して、海外(カナダ)から哲学的に、文化的に考えるーコップの外から日本というコップ全体をみて考える期間となりました。

    いろいろな体験することができました。そのひとつが、現地の日本人向けの新聞ー日加タイムズの臨時記者として、月に一回の特集を担当し、中絶賛否、アルコール販売、介護施設の状況、路上生活者への支援などを取材し記事にする機会でした。中国系友人の言葉は忘れられません。「Miwako, 貴方が日本においてどこを見てきていたのかが、ここで何を見るのかを規定するのよ!」と。

     私の担当教授、Prof.Carrothersは、この環境学大学院の創設者でした。いつも英語で悩んでいた時に、「キープ・ゴーイング! 君の考えは書いたもので十分良く分かるから心配しないで、、。」と、いつも励ましてくださいました。著書 The Maple Leaf Forever で有名な歴史学者のProf.Ramsay Cookは、バードウォッチャーということで、ニッポニア・ニッポン(トキ)が最後の一羽になったことを心配していました! ここでの生活や騒動については、別の機会にいたします。








  • 1982年:北海道大学大学院環境科学植物生態研究室研究員
     ここで、苫小牧工業地域における変遷を整理するお手伝いをしました。



  • 1974年 - 1981年: (株)千代田デイムス・アンド・ムーア:陸域生態分野の責任者として緑地公園計画・環境アセスメント調査・実験研究業務(1974-1981) ( pdfファイル)

 各プロジェクトにおける調査方法等の計画や最終報告書のまとめは筆者の責任でしたが、現地における実際の調査は大学教授、研究者、院生、ナチュラリスト等に依頼しました。しかし現場での実体験の重要性を考えて、筆者はできる限り各調査に同行していました。春夏秋冬における各種の植生調査、動物の足跡調査、鳥の鳴き声調査、昆虫採集調査等、月に1回は現地を訪ねる生活を8年間ほど続けていたことになります。 思い出に残る人や場所の中で、特に、留萌地域の山奥に熊撃ちの猟師を訪ねてお話しを伺った時、その方に広い世界観というのか、生きている熊を正面から相手にして立ち向かう経験から蓄積された人のもつ言葉と考え方に対して畏怖の念を生まれて初めて感じました。今でも心の中にあの時の雰囲気が残っているのでしょうか、はっきりと思い出すことができます。
 また、現在の留萌の地図には地名が載っていないのですが、『留萌市史』の中のアイヌの地図には、アイヌ語で地名が書いてありました。多分、アイヌの人にとっては意味ある場所だったのでしょうが、本州から移住した人には意味のない場所ということなのでしょうか。なかなか興味深いものでした。「開発」の意味を考えさせられる機会でもありありました。この地域の変遷を図に表わしてみることもしました。


 北海道大学の犬飼哲夫名誉教授とともに、雪山を山スキーを履いて、足跡や糞をたどる動物調査を一緒に行なうという貴重な体験もできました。


犬養教授

 最後のプロジェクトは、大阪南港の野鳥公園整備のための調査でした。カナダから帰国して、その後の様子を見学にゆきましたところ、当時の担当者のS氏から、「黒坂さんが、残してください!」といわれた数本の葦はこのようにみごとに広がっています。」と話してくださいました。当時、私は、野鳥公園整備ガイドラインを作成するために、英国の湿地や人工サンクチュアリーを見学したこともありました。



  • 1974年頃: ある地域コンサルタント会社で臨時の植生調査現場は、渡良瀬遊水地でした。
    背丈以上の葦原をひとりで、田中正造氏と農民の方々の歴史を想いながら歩き回った時に感じたあるしみいるような感覚は今も身体が憶えているようです。古河鉱業とは、その後に、北海道大学環境学大学院、また、ジャーディンマセソンとつながることになりました。



  • 1973年 - 1974年: 東京都立大学夜間聴講生(自然地理学、哲学、ローマ法など)



  • 1971年 - 1974年: (株)平凡社企画部:下中弥三郎記念財団EC(エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ)日本支部設立準備業務

     動物行動学の研究で著名なマックス・プランク研究所に所蔵するフイルムの図書館―エンサイクロペディア・シネマトグラフィカーの日本支部設立を㈱平凡社内の下中弥三郎記念財団が引き受ける企画があり、その開設準備に向けての作業を手伝う機会に恵まれました。そのフィルム図書館は、コンラート・ローレンツ博士やニコラス・ティンバーゲン博士等の動物行動学者が動物の行動を研究する際に、「動き」を文章で描く限界を補うために使用した16ミリフィルムの蓄積から始まったものでしたが、分野は「生物」ばかりでなく、「文化・民族」、「科学技術」もありました。私の仕事は、日本においてこれらのフィルムがどのように活用される可能性があるのか専門家から意見をいただくことでした。当時活躍していた、沼田真教授、日高敏隆教授、河合雅雄教授、川那部浩哉教授等に、いろいろなフィルムを一緒に見ていただきました。
     例えば、「歩く」というテーマでは、いろいろな動物の歩く姿だけが普通の回転と、スローモーションで写っているのです。民族の分野では、パン作りとか、踊りの様子がヨーロッパ各地からブラジルの熱帯林に住む民族のそれまで映した記録が収められているのでした。
     脳生理の学者であり、『人間であること』の著者であった時実利彦先生のご自宅を訪ねる機会があり奥様に親しく接していただいたことも貴重な体験でした。



  • 動物雑誌「アニマ」創刊準備・編集業務

     著名な学者との勉強会を重ねているうちに、日本には所謂自然史(ナチュラル・ヒストリー)或いは博物誌に関する学問の伝統が大切にされていないという議論になり、当時の平凡社社員で子どもの本を書いていたT氏等が、新しい動物雑誌発刊の企画へと動き出し、『アニマ』創刊へとつながったのでした。
     私も海外の動物雑誌を参考にするために、英米独の動物雑誌を取り寄せてその内容を翻訳したり、リスに発信装置を着けての野外調査に同行して記事にしたり、『オオウミガラスの最後』(注)の翻訳を毎号掲載するための打ち合わせなど、初めての動物雑誌発刊準備過程に係わりました。 創刊記念のパーティにおいて、憧れの今西錦司教授と握手することができた私としては、それで十分でした。
     注:これは後に本として発刊―『最後の一羽―オオウミガラスの絶滅物語』アラン・エッカート、浦本昌紀・大堀聡訳、平凡社、1976年




  • 1970年 - 1971年 (株)自然科学映画社:「総合防除への道―化学農薬から生物農薬へ」16ミリ映画制作補助

     大学卒業を前にして進路を定めることができずに悩んでいた時、研究室の女性の先輩が自然科学映画者という小さな会社で自費製作するという16ミリの映画「総合防除の道―化学農薬から生物農薬へ」を手伝うことになりました。返還直後の小笠原諸島を訪ねて実験中のミカンコミバエ不妊化を取材し、長野県須坂市の果樹園での取材で、多量な農薬の使用は消費者が「虫食いのないキレイなリンゴを求める」ところに起因することなど、現在の環境問題の根本的な課題を学びました。



  • 1966年 - 1970年 東京農工大学農学部植物防疫学科(現在、資源保護学科に)入学・卒業

    今では、『生協の白石さんと東京農工大学の学生』として知られるようになっていますが、当時は小さな地味な大学で、キャンパス内に農場がありと、牧歌的雰囲気を漂わせていました。

     当時、一般教養の生物には、フランスから帰国直後で、K.ローレンツの『ソロモンの指輪―動物行動学入門』(早川書房)を翻訳された、日高敏隆教授がいらして、熱のこもった授業をされました。また、研究室には、当時の大学図書館では見られない興味深い書籍が沢山あり、かなり自由に貸出ができましたので、よく利用させていただきました。八杉竜一先生の科学論に関する著作はそのひとつでした。この書籍棚のおかげで今の私があるように思い、改めて、日高先生のオープンさに感謝申し上げます。
     日高教授の翻訳本のひとつにジョン・リビングストン著『破壊の伝統―人間至上文化の組みかえのために』(文化放送)がありました。西洋文明がもつ自然観が環境破壊をもたらしているという趣旨のもので、とても新鮮な切り口や観点でした。
     そして、10余年後に、私は、海外の大学院で学ぼうと決めた時にその選択の優先項目は、そのジョンリビングストン教授の「環境問題を文化的に哲学的に考える科目」があるというので、カナダのヨーク大学環境学大学院としたのですから、不思議な縁です。

     もうひとり、忘れられない先生は、数名しか受講しない2年生の講義「微生物学」を担当された山口辰良博士で、当時東京大学応用微生物研究所の方でした。私の提出したレポートを読まれてしばらくした頃、私を研究所に招待してくださり、そして上野の不忍池のほとりで、ある助言をしてくださり、御著書『最新応用微生物学入門』(技報堂) をくださいました。
      その助言は、「もし、研究者としての職を考えているのであれば、今の大学では限界があるよ、」というものでした。その当時、先生の助言の意味がまったくわからない学生でした。
      今、頂いたこの著書の山口博士略歴には、トリコマイシンの発見者の一人として、総理大臣賞を受く、とあります。


    学生紛争が激しい時期でしたので、本業に集中できる状況ではなかったのですが、生態学は生産生態学を学び、時には、光合成測定車でフィールドに出かけたり、農薬実験ではDDT,BHC,パラチオンを合成しそれを昆虫に駆けて致死状況を調べたりもしました。

     クラブ活動では、ワンダーフォーゲル部員として、丹沢の山登りから始まり、飯豊朝日連峰縦走、八ヶ岳縦走、南アルプス・ミニ縦走、大雪山ミニ縦走を体験しました。全パーティが集合した大雪山ではゴミ掃除をしたこともありました。
     早朝に山の頂上に座り、太陽が登ってくる時に感じるあの何ともいえない荘厳さは今での身体が憶えています。

    間ノ岳山行き



       今西錦司博士の日本語と自然の見方に夢中になった頃でもありました。『私の自然観』 (筑摩書房、1966) その中で、アフリカの潜在力に期待している内容と、科学と技術の拡大化とより共通性の高い人間性の必要性を述べている内容に、とても心ひかれました。 この本の中で書かれているタンガニーカ(現在のタンザニア)のセレンゲティやオルドバイ渓谷をその後訪ねたりしたことも含めて、この本が、私のこれまでの旅の基調となっていたのだと、今、振り返って思います。

    私の自然観


     そして、20歳になった時、府中にある大国魂神社境内の図書館から出て南武線の駅に向かう交差点上で、「私は、自然と人間の係わりについて考えてゆこう、そのためには、いろいろな職業についてみよう」と、そう決心した瞬間を今も思い出すことができます。素朴にですが、日本社会の階段を上がることは、小学生時代の遊び仲間を消したり、彼等の住み場所を壊すことに加担する側に立ってしまうと感じていたからでもあります。

     10代の時に、子どもの時代の遊び友達であったレンゲ畑、きれいな水の流れる小川、カブトムシ、アゲハチョウ、カジカ、キセキレイ等の棲み場が消えてゆき、人工物が急激に増え、道路や海岸がアスファルトに覆われてゆく変化―生命の躍動する美の世界から単なる人工物に覆われる世界への変化―を見ながら、「このようなことでよいのだろうか」と素朴に疑問を感じた時、私の旅は始まりました。



  • 1966年(東京都世田谷区)鴎友学園女子高等学校卒業
     週初めの全校生の集まる朝会はピアノ演奏から始まり、石川志づ校長による聖書の時間があり、クリスマスや折々の行事に賛美歌を歌い、ある時は、大劇場でハレルヤを合唱する学校で、教師の方の多くはクリスチャンのようでしたが、ミッションスクールとは名乗らないような地味な高校でした。体操の時間はリトミック、校内に万葉園があり、園芸クラスがあり、みごとな藤棚をもつ木造の茶室もありました。
     校歌には、「慈愛と、誠実と、創造と、、」とあります。(津田塾を卒業されていた)英語の小林和子先生はある時こう話されました。「多くの皆さんは、英文科を進学先としていますが、もう一度、よく考えてください。私の時代は、女性が社会に出る際には、このような限られた分野しかなかったのです。今の皆さんは、いろいろな可能性が広がっているのではないですか!」と。漠然と皆が英文科に進むようだから私も、と思っていたのですが、このお話を契機にして、私は自分の進む分野を真面目に考え始めました。また、小林先生は、理科系進学クラスに私の知らないところで入れてしまっていました。そして、大学受験で数学IIIを使ったのは私ひとりという状況でした。
     あまり真面目な生徒ではなかったのですが、この高校生活で、私は、ある拠って立つ確かなものを学んでいたことに、海外に行って初めて気がつきました。


  • 小学・中学時代
     私は、熊本市内で生まれ、山梨県身延町や飯田市で育ち、友人や隣の家の田んぼや畑で堆肥まきや田植えや稲刈りや、蚕へ桑をあげたり、牛や馬に触れる経験ができましたし、蚕の蛹やカミキリ虫の幼虫も食べました。中学は東京都杉並区の高井戸中学校でしたが、父と妹達とは多摩丘陵の里山を歩き回り、楽しい無邪気な時を過ごしました。




朝焼けの富士山








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